なんという急転直下の冬模様!
そのせいで、近年とんと老化の進んだキッタンの心身は、その急な変化についていくことがでいませんで、昨日から血圧上昇気味です。
おトキさんも昨日は絶不調で「ネキリムシ退治」どころではなく。
そんなわけで、文化の日はキッタンにとって、久々にうれしい読書デーとなりました。
神経を使わず、気楽に読めるものはないかいなと、一昨日の夜、書棚を物色して手にしたのが、アガサ・クリスティの短編集『リスタデール卿の謎』(ハヤカワ文庫/田村隆一・訳)。
クリスティを読むのは超久々で、この短編集もいつ頃読んだのか、そもそも読んだことがあるのかさえ記憶になく。
で、12編の短編の中では、タイトルにもなっている1篇めの「リスタデール卿の謎」が一番印象に残っていますね。
もとは良い暮らしをしていたのに、夫が投機に失敗したために”清貧”を余儀なくされているセント・ヴィンセント夫人とその娘、息子。
安っぽい貸し間の間代さえおぼつかなくて困っているところに、上品な屋を破格の値段で貸すと新聞広告が出ているのを目にした夫人は、恐る恐るその屋敷を訪ね、気に入ってしまいます。
住まいもさることながら、そこにいる執事に親近感をもったのです。
ところが、この屋敷はリスタデール卿のもちもの。
しかも、彼は失踪してしまい、行方は杳として知れません。
夫人の息子は裏に事件ありとほのめかしますが、結局、家賃の安さと居心地良さに惹かれ、一家はここを借りることにするのです。
そうして、生活はすこぶる快適に営まれていく。
わずかな家賃しか払っていないのに、きれいな花が届いたり、おいしい食事が供されたり。ふーむ、ますます怪しい。何かあるのではないか。
そこで、息子が調査に乗り出すと・・・。
クリスティの作品を何篇か読んだ人なら、途中で結末のおおよその見当がついてしまうというわかりやすい展開ではありますが、読んだあとで心の中に明かりがともり、人間の性善説を信じてもいいかなと、そんな気持ちになれる作品です。
そして、他の11編もこの作品と同様に、ミステリーというよりはミステリーを味付けにしたロマンスやハッピーエンドの掌編。
ちょっと都合よすぎる部分もあるけれど、読み終わって後味がよいという点では、良質のリキュールのごとし、でしょうかね。
実はキッタン、若いころはクリスティーの作品が嫌いだったのです。 読み手に登場人物のほとんどを疑わせるよう仕組んでおいて、最後で足をすくうのがクリスティのやり方。
もちろん、その手法はミステリの常とう手段ですから、他の作家も使っているわけですが、クリスティの場合は疑わせ方が顕著です。
ですから、2,3編読むうちに、もう騙されないぞと小生意気なことを考えるようになりまして。
そして、クリスティの鼻をを明かしてやろうとばかり、彼女が読者に疑いをもたせるような事情や人物を極力疑わないようにしながら読んだわけです。
そうすると、全然、面白くない。
当然でしょう、ミステリの魅力、とりわけクリスティの魅力は、小説の世界に入り込み、一緒になってわくわくドキドキする、そこにあるので、冷静に事件を分析するなんてことがしたいのなら、ミステリなぞ読まず、現実の事件を検証したほうがいいんでね。
さすがに12編を続けて読むと、似通ったプロット、似通った手法が繰り返されていて飽きる部分もありますが、一気にではなく少しずつ読めば、12通りの微妙な味の違いも楽しめるかもしれません。
それにしても、ここ何週間かのうちに日本で起きたいくつもの殺人事件のことを思うと、クリスティのこのミステリー短編集の世界のなんとのどかなことか。
そして、つくづく思います、いったい日本人はどうしてしまったのだろうと。
○『心――日本の内面生活の暗示と影響――』
(岩波文庫/ラフカディオ・ハーン・著、平井呈一・訳)
10月の終わりごろに読了したのですが、大変、面白く読んだ1冊です。
タイトルの副題にもあるように、ハーンという外国人の目で見た明治期の日本、および日本人観で、彼が日本の情緒的な部分に好意をよせているのが伺えます。
たとえば冒頭の「停車場で」というエッセイ。
警察へ引かれていく途中の殺人犯人が、自分が殺害した警官の妻子と対面するというハーン自身による見聞記です。
列車で護送されてきた罪人に付き添った警官が、駅の人ごみの中で、被害者の妻子を呼んで、わざわざ罪人と対面させる。
しかも、警官は奥さんにではなく、まだろくに物事のわからない4歳の子供に話しかける。
いわく、「この人が坊ちゃんのお父さんを殺した男である」と。
すると、これに呼応して罪人が、その子に申し訳ないと涙ながらに謝るのです。
小説仕立てであるならば、なんじゃ、このお涙ちょうだいな話はと突っ込みたくなる内容ですが、ハーンはむしろ、驚き、感心さえしている。
そんな風に、「自分も人の親であるという観念、どんな日本人でも、その精神のうちの大部分を占めている、わが子に対する潜在的な愛情、これに訴えて、罪人の悔悛を促したという点」が実に東洋的だというのですね。
この一件については、彼はそれ以上突っ込んで考察をしていませんが、後に続く何篇ものエッセイの中で、こうした情緒を西欧では失ってしまっており、それが物質文明や拝金主義、一神教に原因があるといった意見を折にふれて述べています。
今になって読めば実に警告的な内容ですが、残念なことに明治期からの日本は、ハーンの警告を無視し、彼が西欧について嫌っていた部分を積極的に吸収し続けたようですね。
個人的には「前世の観念」、「先祖崇拝の思想」が興味深く。
ハーンは神秘主義を好む傾向があったとあとがきで書いていますが、この2編では、科学的に日本人の観念を分析する試み。
それが現代の科学を先取りしていて、ハーンの明晰さ、先見性に感心しました。
ハーンといえば『怪談』がおなじみですね。
クレオールを題材にした小説も書いて、これもなかなか読みがいがありますが、異国のエキゾティズムに惹かれての文筆活動かと、軽く見ていた傾向あり。
ところが本書では、「あみだ寺の比丘尼」、「きみ子」などでは小説家の視点、「門つけ」や「旅日記から」では民族学者、社会学者の視点、というように、ハーンの内包するさまざまな才能が伝わってきます。
こういう優秀な人材が明治期の日本を訪れていたことにも、改めて驚かされます。
彼は日本については、「霊の日本」、「神国日本」なども記しているとのこと。時間があれば、ぜひ読んでみたいものです。
さて、これからランチ!!

